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願いに手足を

 

自らを慈しむことの陰陽について考えている

 

陰はセルフケア – 自らをケアしてあげること

毎日の健康的な習慣だったり、からだやこころの栄養を与えてあげることだったり

 

陽は自己表現 – 自らを通じて外に表してあげること

能動的なエネルギーを持って、この世界になにかを表し、つくりだすこと

 

内に入っていくとともに、自らの願いに触れ

外に出ていくとともに、その願いに手足を与えてあげる

 

手はそれをつくりだし、

足はそれを、せかいへ連れて行ってあげるもの —-

もしくはみんなに、それはここにあるよ、と教えてあげること。

 

 

 

いのちのまたたき

 

こころの領域は、からだのことがおざなりになってしまうことが多いような気がするの。

 

からだをあたためること、清潔に保つこと、じゅうぶんな栄養をとってあげること、、

からだの領域から、こころによい変化を生み出せることは、たくさん、ある。

 

そして、同時に、

からだのことを、ただシステムとして、原因の特定と対処、のような、無味乾燥とした対応でどうこうしようとしても、それは砂をつかむようなことだったりするのでは、と思うのだよね、、、、。

 

そこには、やっぱり、こころ、がひつようになるのだと思う。

 

だいじょうぶですよ、ちゃんとよくなります、いっしょにやっていきましょうね、

そんな、あたたかさであったり、

そのひとが、そのひとのなかで、

なにかにいのちをすこしでもかがやかせて、それをすこしずつ、そだてていこう、と思えることだったり。

 

いのちが、呼吸する。

いのちが、その自然な速度で、本来の姿に回復してゆこうとする。

 

そういうことの、からだやこころのもっと奥にある、ちいさな意思のようなものが、

そのいのちのあゆみ、ゆく先を、導いていくような気がしてる。

 

 

 

はじめに – 言葉の限界から

 

まるっとめぐって、いまはあるのは、

言葉であらわせることなどないなぁ、ということ、、かな、、、、。

 

言葉で、あれや、これを、語ったり、表したりすることは、できる。

でも、それは、ある一部分についての、ある瞬間の、ひかりの当て方で。

 

ぜんたい、があるところ、ぜんたい、が、あるがままにうつりゆくところに、

それをすべてあらわせる言葉など、変わりゆくものとともに変わりゆいてくれる言葉など、ない。

 

それを、もう、大きな前提として、

それでも、わかちあいたい泡のようなものがわいたとき、

それをそっと手にとって、空にはなって、みるのか、な、、。

 

 

 

 

 

追記 :

 

それは、ただ、感じることしか、できないのだと、、

そして、わかちあうことができるのは、それぞれが、それぞれに、その場所に触れることによってのみでは、と、、、

 

そして、それは、場や体験をともにすることによって、つたわっていくことは可能で、

そのほんの、一部分、のようなところを、言葉は、残り香のように、もしくは北極星のように、

それをつたえ、指し示して、くれるのかも、と、思う、、

 

(だから、こうして、なにかを書いてみよう、と、思うのかな、、

 いのちの、しぜんな、衝動として、、、)